岐阜県大垣市立青墓小学校との交流

 岐阜県大垣市立青墓小学校と三川小学校は、源朝長(みなもとのともなが)を通じた縁から、平成5年度より交流を始めました。平成7年には、青墓小学校に「青墓と歴史を結ぶ朝長公」のふるさと交流の記念碑が建立されました。青墓小学校からいただいた記念樹は、三川小の運動場で大きく成長しています。
 

両校を結ぶ 源朝長とは・・・

 源朝長は、鎌倉幕府の祖 源頼朝の兄に当たる人物で、16歳の若さで非業の最期をとげた人物です。平家との争い「平治の乱」の折、戦いに敗れた源氏は父源義朝や兄たちとともに青墓まで逃れてきます。再び態勢を整えるべく策を尽くそうとしますが、その途中、若い朝長は足に深い矢傷を負ってしまいます。敵の追っ手をかわしながらいち早く先を急ぐのに、この傷では一族の足手まといになると考えた朝長は、父 源義朝にその覚悟のほどを伝え、介錯を頼むと、源氏の再興を願いながら自害して果てたのです。
 朝長の首と体は、最期の地、岐阜県大垣市青墓に葬られました。ところが、追っ手をかけてきた敵に発見された朝長の墓はあばかれ、その首は墓から持ち出されて京の四条河原でさらし首にされました。
 これを知った朝長の守役であった大谷忠太は、朝長の首を奪い返すと、自分の生まれた袋井三川まで逃げのびて、この地に朝長の首を葬ったのです。
 こうして、朝長の首と胴体は、青墓(岐阜県大垣市)と三川(静岡県袋井市)の地に遠く離れて葬られることとなりました。朝長の墓は2つの地にそれぞれ建てられ、三川では、三川小近くの積雲院にあります。また、大谷、友永(ともなが)の名は、現在まで三川地区の地名として残されています。